Home
|
********* ガンバレ闘病OBのみなさんへ ********* |
有村正昭さんが9月1日逝去されました。東京医労連副委員長等を歴任し医療産別の運動の前進に貢献されました。OB会総会を前に、「皆と一緒にまた旅行をしたい」「癌に勝つ」と最後まで頑張りながらの旅立でした。享年68歳、ご遺族は妻・洋子さんと二人の息子さんです。ここに「送る言葉」を紹介し、ご一緒に冥福を祈りたいと思います。(事務局)
「有村 正昭氏の死を悼む」
−−東京医労連OB会会長 古泉 秀夫−−
2010年9月1日有村正昭さんが亡くなった。享年68歳とのことである。現在の寿命からいえば、些か早死にだったのではないかと思われるが、肺癌だったという。有村さんは東京医労連執行委員、副委員長として、東京における医療労働運動の旗振り役を果たしてきた。さらに勤務していた病院の関係で、精神部会の世話役として長く医療労働運動の中心的存在としての役割を果たしてくれた。特に春闘の賃金闘争では、精神部会の相場を叩き出す重要な役割を担う労組として頑張って頂いたが、不思議なことに労働運動で落ち込んでいる有村氏を見たことがなかった。調理師としての腕を試してみたいということで、定年前に病院を辞め、店を持ったという話を聞いた。その後、元気で店をされていると思っていたが、体調が思わしくないこともあり、店をやめたという話を耳にした。その後しばらく有村氏の話を聞かなかったが、最新の話題は入退院を繰り返しているといことであった。結局、その病が彼の命を奪ったことになるが、衷心から哀悼の意を捧げたい。
「有村さんゆっくりお休み下さい。色々の思い出ありかどうございました」
−−根岸病院労組 宮本 武子−−
有村さんを語る時、医療労働運動・精神部会全般で広く活躍された姿も書きたかったのですが、どうしても根岸病院労組との関係が主になってしまいます。何故なら、私たち根岸病院労組としては、有村さんの強い個性が輝いていたと思う1970年代から80年代にかけ、根岸労組に度々支援に来ていただいた思い出が強いからです。
私たちの団体交渉が行き詰まり膠着状態の時、有村さんの出番でした。局面打開の戦術、硬軟をたくみに使い分け、超保守的で頑固な理事長兼院長を「わかったよ、まいった」と云わしめたものです。そのような時、有村さんはやさしい何とも表し難い笑顔で、理事長と握手されるのです。団交が近づくと「次の団交に誰が来るの」と問う理事長に「有村さん来ますよ」と応えると「そうか、有村さん来るのか・・・。」と肩を落とす様子を見せることもあり、有村さんの存在は私たち根岸労組にとっては「助けの神」であり、経営側にしてみれば何度も苦杯をなるさせられた「強敵」だったのではないでしょうか。
こうした事情から、根岸労組と有村さんという極限的な思い出が鮮明で、広く大きく奮闘された姿がどうしても遠景になるのです。もっと書きたい思いではありますが、燃えつきて逝った有村さん、「癌に勝つ」と書かれた最後の便りを読みながら、根岸の三役だった3人娘(今はばあちゃん)−−永浜、佐々木、宮本は、折りにふれ、有村さんを思いだし、語り合うことでしょう。
〜医療産別の運動に大きな足跡を残した
−有村正昭さんを偲んで− 高橋 博〜
2010年9月1日、有村正昭さんが逝去された。68歳はあまりにも早い旅立ちであり本当に残念である。有村さんの病状が思わしくないと聞き、6月4日に古泉OB会会長と有志数人でお見舞いに伺った。そこで奥様も交えて短時間だったが現役時代の思いで等を語り合った。2回目は、都立駒込病院を退院する前日の7月29日、OB会有志で病院に伺った。帰り際、有村さんは『10月の湯河原旅行に参加したいから頑張るよ』と言って、すっかり痩せて小さくなった手で私の手を痛いほど握ってくれた。病状が日ごとに悪化して行くもとでOB会とその催行に関心を寄せ、闘病の励みにしていることが私に直に伝わって来た。皆でOB会を立ち上げ、活動を続けて来て良かったなあ とつくづくと思った。
私は有村さんから4年ほど遅れて東京医労連の執行委員になった。すでにその頃は大学・精神・民医連・一般部会などで熱心な活動が行われていた。まだ多くの仲間が30歳代前半で光り輝いていた時代である。1970年代から80年代の東京医労連の賃金闘争を通じて医療産別・産別統一闘争闘争の原型が形成されていったように思う。特に精神部会は日本医労連の基本路線である医療労働者の要求実現と国民医療を守る、この二つの課題を結合して闘う、という基本をふまえ大幅賃上げと同時に『開かれた精神病院』をめざして、病院の民主化闘争にも力を注いだ。
現代流に言えば『労働組合の社会的責任』を自覚した積極的な提言と運動だった。こうした精神部会の運動は東京から全国の精神病院へと拡がっていった。このたたかいで中心的役割を担って奮闘した有村さんと精神部会の先駆的な活動は東京医労連の歴史にいつまでも残るに違いない。有村さんは温厚な性格で誰にでも好かれ、『有さん』『有さん』と呼ばれ、多くの仲間から信頼を集めていた。有村先輩、長い間本当にお疲れ様でした。
心からご冥福をお祈りします。
〜有村 正昭さんを偲んで〜 −癌研労組 武藤 勝−
有村さんに久しぶりにお逢いしたのは、重野さんの回復を機に2008年2月に新宿西口の飲み屋に16人ほどで集まった時でした。早速東京医労連OB会をつくろうとなり、医労連OB会は2008年9月に発足、2009年の第2回総会は9月14日〜15日に「御岳山荘」で行いましたが、有村さんからは『小生目下、肺癌治療中にて身動きできません。元通りになり次第また参加させて戴きたく強く思っているところです。御岳山荘という文字を見ただけで、血わき肉おどる思いが致します』とのメッセージが寄せられました。
有村さんとは北部ブロックでも長く一緒に活動をさせてもらいました。癌研の支援にも何度も来てもらいましたし、精研の木造の組合事務所にはブロック会議やストライキ支援でお邪魔しました。ブロックオルグでは奥様の運転(有村さんは運転出来ない)で車を出していただき組合を廻ったり、2〜3人で有村さんの家に泊めてもらい朝起きたら有村さんはすでに早番で出勤、我々は朝御飯を御馳走になったこともありました。そして、定年を待たず精研を退職し、飲み屋「一休」さんを開店。何度か飲みに行きましたが楽しそうに働いていた姿を思い出します。
御岳山の総会で「闘病中の方々の親睦・激励の旅行会」が決まり、昨年の11月20日〜21日箱根湯本へ、これには有村さんも参加できゆっくり交流することが出来ました。今年の6月始めにOB会員数名で見舞いがてら常盤台の駅前で奥様も一緒にお逢いしましたが、その時の様子からはこんなに早く亡くなられるとは思えませんでした。有村さん、大変お世話になりました。本当にご苦労様でした。心からご冥福をお祈り致します。
|
|